中島らもと仙人
長期旅行者、いわゆるバックパッカーは移動や一人で過ごす時間が長いため、文庫本をもって旅している人は多い。単行本は重く荷物になるため、軽くてコンパクトな文庫本が好まれる。それでも数冊も持ち歩いて旅するのは負担になるし、新しい本を仕入れることは海外では難しいため、読み終わった本は他の旅人に交換してもらうことが常套であった。
イランのヤズドという町の宿で出会った日本人旅行者と本を交換した際、中島らもの本をもらった。ヤズドは拝火教であるゾロアスター教の本拠地であり、鳥葬で実際に使用されていた沈黙の塔で有名な町だ。
その本は「しりとりえっせい」というタイトルであったと思う。
現在私はその本を所有しておらず、その当時に読んだだけなのであるが、非常に印象に残っている記述があり今でも思い出す。
次のような内容のことが書かれていた。
「私たちの周りに当然のようにある車やエアコン、洗濯機などは、ないからと言って死ぬものではない。携帯電話も、コンビニも、パチンコも、SEXもそうである。なければないでどうにでもなる。そうやって、あると便利だが、なくても決して死ぬわけではないものをひとつずつ取っ払っていくと、やがてそこには仙人のように高貴となった自分がいるのだろうか。
いや違うと思う。
そこには、三度の飯を食うだけをただ楽しみに生きている豚のような自分がいるだけだと思う。」
たしか、このような内容のことが書かれていた。
当時バックパッカーをしていた私は、携帯電話もパソコンも車も何も持たずにバックパック一つに必要な荷物を入れて旅していた。
(今のようにスマホだ、wifiだなどなかった時代で、誰かと連絡をとるには日本語の使えるネットカフェを探さなくてはならない時代でした)
なければないでどうにでもなっていたし、特別不便で仕方ないということも感じたことはなかった。
ネットカフェを探して日本の家族にメールを送り、同じ旅人同志で連絡を取り合い、洗濯はバケツで手洗い、砂漠地帯でトイレがなければ野グソ、キッチンのある宿では鍋で米を炊いていた。
旅ではそれが当たり前だった。
しかしモノや情報に溢れ、選択肢にことかかなくなった今の時代。
そうやって必要でないと思われるものをどんどん処分していくと、そこには仙人のように高貴な自分がいるのだろうか。
いや。
中島らもの言う通り、確かにそこには豚のような自分だけがいるような気がする。
ミニマリストやシンプリストが流行ったけれど、持たない生活は仙人とは違う。
そもそも、物理的なミニマリストにはなれても、情報の断捨離は出来ない人がほとんどであろうし。
本当に大切なものって、そんなにないんだと思う。
たくさん持っていても、多くは必要のないものであったりして。
自分も多くのものを欲しいとは思わないが、本当に大切で欲しかったものはなくなってしまった。